大正11年、親類筋に当たる市内の平井商店に弟子入りして修行しました。当時5〜6人の弟子がいました。当初は、下働きと見取り稽古、ついでロクロ仕込み・骨つぎ・紙張りと進みました。傘製造組合が昭和2年頃まで続き、中断後の昭和16年頃、傘製造組合連合会ができました。戦後は傘職人も少なく、組織はありません。徴兵検査まではタダ奉公で、お礼奉公1年の後に一人前となります。道具類は、独立後に自分で揃えました。

独立後、早朝から深夜まで作業をしましたが、内弟子と生活するようになると、夜10時で作業を打ち切りました。弟子時代は、親方の家族と食事は別 でしたが、自分の内弟子は家族同様の扱いをし、商店名入りハンテンを着せて作業をさせました。毎月1・15日が休日で、弟子には小遣いを与えました。正月は一週間ほど休み、盆は16日から仕事をしました。注文生産ですから、年中店を開けていました。

踊り傘は生活必需品ではありません。将来安定した需要があるかどうかわからないことや、労働時間に見合う収入が上がらないこともあります。その他、傘用の紙の問題や安価な県外傘を鳥取傘として販売することも見られ、強さ・耐久力を主眼に地道に製作伝承していく上でも問題があります。


 
 



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